殺虫剤をかけたら

臼井さん(仮名)の視力は、0.1以下である。

夏のある日、その臼井さんは、自室の窓とドアを全開にして昼寝をしていた。

彼女の部屋にはクーラーがなかったが、自宅二階にある部屋は風通しがよく、真夏でも窓とドアを開け放っていれば、そこそこ涼しかったのだ。また、彼女自身、クーラーの冷たい風を苦手としており、長く当たっていると体の調子がおかしくなる。なので、彼女は夏といえば窓とドア全開派(?)だった。

柔らかな風に当たりながらまどろんでいた臼井さんだったが、何故かふいにぱっちりと目が覚める。

それは、妙にはっきりとした覚醒だった。まるでスイッチのオンオフのように、睡眠から普段の意識へと切り替わったのだ。

むくりとベッドの上で上体を起こした臼井さんは、まっすぐにドアの側の床を見た。無意識だったが、最初からそこに何かあると確信し、反射的に体が動く。

果たして、そこには確かに何かがいた。黒くて平べったい何かだ。0.1以下の視力では、それしか分からない。が、それだけで十分だった。黒くて平たいといえばアレしかない。ゴのつくアレだ。

すぐにベッドの脇に置かれた殺虫剤のスプレーに手が伸びる。田舎なので、各部屋に殺虫剤完備は当たり前だった。自分の身は自分で守る。田舎で生きる掟である。

ためらわずに構え、噴射。

狙い通りに、黒いそれは殺虫剤の毒霧に包まれる。

勝った、と臼井さんが思った瞬間、

──ギアアアアアアアアアア!!

正体不明の金切り声が、部屋に響き渡った。

男とも女とも、大人とも子供とも判断のつかない、おかしな声だった。

声と同時に、床から黒い何かが飛び上がり、臼井さんの頭の上を越えて、開いていた窓から外へと消えていく。

「……」

殺虫剤を構えたまま、しばし固まる臼井さん。

そういえば、今の黒いのは、ゴのつくアレにしては、少し大きかったような、と、今更ながらに思っていた。

大体、自分の手のひらくらいあったんじゃないかな……

背後に振り返り、とりあえず窓を閉めた。当然、そこから見える景色には、黒い何かなど見えない。もっとも、探す気にもなれなかったが。

起きてすぐ、枕元に置いてあるメガネをかけなかった事は幸いだったかもしれない。

が、臼井さんはこうも感じていた。

いつもなら、起きてすぐにメガネへと手を伸ばす。なのに、今回はやたらはっきりと目覚めたのにそうしなかった。

0.1以下の視界じゃなく、しっかりとアレを見てしまってはいけないと、本能が反応したのかもしれない。

もしかしたら、の話でしかないが、なんにせよアレを詳細に見ることがなくてよかったと、ひとまずため息をつく臼井さんだった。

それからも、臼井さんは懲りずに夏場は窓もドアも全開でいる事が多い。

ゴのつく黒いアレはたまに見るが、普通に成敗できているという。

声を上げるようなヤツは、今の所あの一度だけしか遭遇していないそうだ。