夏の、暑い日だった。
学校からの帰り、田んぼの中の一本道を自転車で走っていると、アスファルトの道のずっと先が鏡のように光っていた。
逃げ水。
蜃気楼の一種であり、地面が熱せられて直上の空気が歪むことから、光が屈折してまるでそこに水たまりがあるように見える、という自然現象である。
実際にそこに何かがあるわけではなく、近づいても近づいた分だけまた遠くに見えるようになるだけだ。故に逃げ水、という名称がついている。
暑い時期ならさほど珍しいものでもないので、特に気にはならなかった。
しかし……
「……ん?」
最初は、気のせいかと思った。
前方遠くに見える逃げ水が、だんだん近くなっているような……
じっと注視する。間違いない。近づいてくる。鏡のように見える幻の水面が。
自転車を漕ぐのを止め、地面に足をついた。それでもこっちに来る。止まらない。
こちらが近づいているのではなかった。向こうから来ている。逃げ水が、道路の上を滑るように。しかも、近づくにつれ加速が増すとでも言う風に、あっという間に迫ってくる。
逃げる? でもどこに? ここは田んぼの中の一本道だ。左右は青々としてまだ穂も付けていない若い稲が茂っている。その中に飛び込むくらいしかない。
そんな事を決める間もなく、逃げ水はやってきた。
瞬間、真冬のような寒さを感じた。本当に気温が下がったのか、恐怖でそう錯覚したのかは判断がつかない。
寒さの他に、音も聞こえた。
獣の叫びのような、大勢のざわめきのような、強い風が森の梢を揺らすような、渦を巻いて流れる激しい濁流のような、そんな、いろんな響きが混じった、爆発のような音だった。
寒さも、音も、一瞬の事だ。
そう、たった一瞬。
後には、口をぽかんと開けた自分だけが残っていた。
周囲には、何の変化もない。
こわごわと後ろを振り返っても、通り過ぎていったはずの「もの」はどこにもなかった。
前方に目をやると、遠くにまるで何事もなかったかのように、逃げ水が見えている。
よっぽど回れ右して他の道を通ろうかと思ったが、それだとかなり遠回りになってしまう。
仕方なく、おっかなびっくり自転車を漕ぎ始めた。
幸い、再び逃げ水が近づいてくる事はなかった。