子供の頃、家の近所に古い工場があった。
何の工場だったかは知らない。物心ついた時にはもう稼働していない無人の廃工場であり、入口も閉鎖されていた。
そこそこ広い敷地はぐるりと赤茶けたレンガの壁で囲まれており、そのレンガ塀もかなり年月を感じさせるほど、個々のレンガが色あせ、所々風化していた。
小学校の頃はそのレンガ塀沿いの道路が通学路だったのだが……ある日、そのレンガ塀の一角に、妙なものが生えているのを見つけた。
近づいてよく見ると……レバーだ。金属製で、先に丸い取っ手が付いている。長さは30cmくらい。
昨日までは、そんなものは無かった。
毎日通るのだ。それくらいは分かる。
誰かがイタズラか何かで壁に差したのだろうか? それくらいしか、考えられない。普通に考えたら、こんな場所にレバーがあるはずがないのだから。
とりあえず、握ってみた。
レバーは60度くらいの角度で上を向いている。根本はよほどしっかり壁に刺してあるのか、動かそうとしてもビクともしなかった。
それならばと、体重をかけ、ぶら下がるようにして押し下げようとしてみる。
何度も、何度も、勢いをつけ、力をかける。
下がれ、下がれ、下がれ下がれ下がれ!
いつしか、夢中になっていた。
とにかく、上を向いているレバーを下げたい。いや、下げなくてはならない。
それしか、考えられない。他のものなんて、目に入らない。
僅かずつ、ほんの少しずつ、レバーの手応えが変わってくる。動きそうもなかったものが、もしかしたら動くかも、程度の感触に変わり、さらに容赦なく力を加えていると、数ミリくらい実際にガタガタと震え始めた。
──いける!
そう思ったその時、
「おはよう」
背後から声をかけられ、ハッとした。
振り返ると、近所の同級生がいる。
「何してるの?」
と聞かれて、いや、ここにレバーが……と、壁を見ると、そこにはもう、何もなかった。
レバーどころか、それが刺さっていた穴、痕跡すらない。
今まで必死になって動かそうとしていたものが、何もかも煙のように消えてしまっていた。
そういえば、自分は何故、あんなにレバーを動かすことに一生懸命になっていたのだろう。
まるで何かに取り憑かれたみたいに。
もし、あのレバーを動かせていたら……自分は一体どうなっていたのか?
……変なレバーを見たのは、その日が最初で最後だった。
廃工場も煉瓦の壁も、自分が中学生の頃にすべて取り壊され、跡形もなくなった。
今その土地は、ごく普通の分譲住宅地になっている。